うぱーブログ

読んで、どうぞ

ぼくのオタク経歴

キモいなぁーって。

自分、キモいなぁーって。

そんで、まぁ記憶が定かなうちに、これまでのオタク歴とか書いとこうかなって。

なんか最近は政治系の記事が多いし、たまにはプリキュアでも歴史でも政治でもないブログ書こうよってね。

一応下書きは5個くらい溜まってて、「荀子を絶賛する記事」「人は仮面をつけてしまう」「プリキュアで見る論語」「ブレグジットについて」「歴代中華帝国の格付け」があるかな。

興味ないって? まぁそう言わずに。

 

 

 

小学校低学年の時に夜の芸能ニュースで地下アイドルだった頃のAKBを知って、二期生として入ってきた大島優子さんに惚れたんだよね。その頃はオタクって感じじゃなかったけど、こっそり深夜に家のパソコンで見たりしてた。

ちなみにAKBではみんな好きって感じ(箱推し)だったんだけど、特に好きだったのは大島優子さん、指原莉乃さん、柏木由紀さん、たかしまゆりなさん(変換サボり)、高橋朱里さん、宮脇咲良さん。まぁみんな好きだった。アイドルグループとしてのAKBってコンテンツが好きだった。

年々AKBが人気になっていって、CDランキングだったりテレビ番組で観れるようになって、メンバーも増えて。周りにも知ってるよって人が増えてきて。それによって、報われないメンバーだったり新規ファンとの感覚の違いに戸惑ったりした。

感覚として売れたなーって思ったのは、「ポニーテールとシュシュ」かな。ついにテッペン取ったんだなと思った。世間的にはその次のヘビーローテーションなんだろうけど。あの頃のAKBは何もかも楽しかった。大声ダイヤモンドからドンドン人気になってくのは、最高だった。

 

今は乃木坂が人気で、たしかに乃木坂さんは可愛くて綺麗だと思うんだけど、僕はAKBみたいな輝きを感じないんだよね……。それは1つにはアイドルオタクじゃなくなったということなのかもしれないけど、やっぱりAKBってコンテンツが楽しすぎたのもあると思う。

総選挙にしても、じゃんけん大会にしても、あの頃のAKBは次に何があるか分かんなくて、でもそれが本当に楽しかった。僕がアイドルに求めてたのが可愛さとかじゃなかったから、恋するフォーチュンクッキー以降のAKBは、もう守りしかない。昔のAKBはとにかく攻めてて、それで失敗することも多かったけど、それが楽しかった。ファンもついていくのに必死だったけど、一緒に走ってるのが楽しかった。

 

なんて、思い出話になるとどうにも愚痴とかお気持ち表明(笑)しちゃうのが良くないね。

AKBは曲もいい曲多いんだよね。シングル曲はもちろん、劇場公演の曲も良いの沢山。アイドルグループのマイナー曲として埋もれるの勿体無いなと思うけど、それを言い始めたら他のアーティストだって埋もれた名曲あるだろうから同じか。カラオケでそういうマイナー曲歌ったらドン引きされて困るね。僕は歌下手だから余計にね。

 

そんなこんなで小学低学年から10年近くAKB推してたんだけど、高3の夏の総選挙でさっしー(指原莉乃さん)が連覇を決めて、それが1つの区切りになっちゃったかな。応援してた子達が一気に卒業したり、スキャンダル発覚で辞めさせられたりして、気持ちが切れちゃったというか。ちょうど受験だしって感じでAKBのオタクは辞めちゃった。

今は乃木坂も有名な人が辛うじて分かるくらいで、もう全然アイドルわからないなー。コールならある程度できると思うけど笑笑。

 

 

高3の春、ちょうどAKBと入れ替わるようにアニメを好きになったんだけど、きっかけは受験だった。

受験に向けて部活も引退するし、1人でも楽しめる趣味がほしくて。それで、深夜アニメを見ようって思ったんだよね。

高3の春のアニメをとりあえずワンクールまるごと予約して、片っ端から見た。初めて見たのは「ハイスクールフリート」だった。それまでアニメって姉ちゃんと一緒に見た「カードキャプターさくら」とか日曜朝の「プリキュア」とか「ワンピース」「ドラゴンボール」「コナン」みたいなのしか見たことなかったから、深夜アニメ特有のキャラ造形とか展開とかノリとか、そういう一つ一つが新鮮で、面白かった。

ぶっちゃけ、アニメというか二次元にものすごく偏見持ってたんだけどね。高2まで気持ち悪いと思ってた。今からは考えられない。ほんの数年間で人ってこんなに変わるんだね。

TSUTAYAでオススメされた人気作は沢山借りてきて見たよ。親にバレたら困るから、東進のパソコンでDVD再生したり、こっそり深夜に再生したり。高3の夏に見たガルパンラブライブは、本当に胸が熱くなった。アニオタってこんなに楽しいんだって、アニメってこんなに面白いんだって。それまで偏見持ってたのが恥ずかしくなったし、今思えばあそこで戻れなくなったんだろうね。

 

アイマスは、アニメは高3の受験後(僕は全落ちして浪人することになったんやけど笑)に見たし、スマホゲームも始めた。でも本気でハマったのは夏に中学同期にシンデレラのLVに誘われた時。当日の昼に「今夜いくぞ」って言われて、僕その時は駿台のフロホにいたんだけど、「楽しいのかなー」って正直不安だった。声優さんって、アイドルほど若くないし、でも歌手ほど歌上手くないし、ダンサーほど踊れないし……みたいな。気分悪くしたらごめんね、本当に当時はそう思ってたんだよ。アニメへの偏見は無くなったけど、声優への偏見はあった。あと、アニメ見て推してたキャラが出演してない公演だったってのもある。たしかデレ5thSSA1日目かな。

あれは本当に衝撃的だった。高田憂希さん及びよしのんを初めて見て惚れたのもあのライブだったし、松井恵理子さんのネオビューティフルペインとか、なんか色々刺さった。とにかく圧倒されてた記憶がある。浪人して鬱々としてたから、楽しいなぁって本当に思った。μ'sはもう解散してたけど、アイマスはまだ追えるっていう、そっちの喜びもあったかな。

 

てな感じでシンデレラに染まって、やがてミリシタが始まって、765のアニメも見て、映画も見て、ミリオンも少しずつ学習して、声優さんにも少しずつ詳しくなって。

それで今に至るというね。まだまだ20年とちょっとの人生だけど、色々あったなー。

もちろん思い出はオタク経歴だけじゃない、むしろオタクは高校までは深くなかったし。だから、たまーにこういう自分語りの記事で紹介していけたらなと。

需要、ないだろうけど、自分でも読み返してて楽しいからさ。ブログの方がまとまった文章書けるし読み返しやすいから、好きだなぁ。

 

 

ありがとうございました。

情報の取捨選択について

だいたい民主党による政権交代のあたりから、マスコミへの批判や反感は強くなってきたと思います。

マスゴミ」なんて言葉もしばしば見かけるようになってきました。僕としてはゴミ呼ばわりは苦手なんですけど、これも世相を反映した造語ですよね。

もともと知識人による根強いものがあったのがネットの普及によって顕在化して、最近ではSNSによって若者を中心に多くの人から支持されている主張……。

では本当にマスコミは悪者なんでしょうか。マスコミが正しくないのなら、僕らは何を信用すれば良いのでしょうか。

 

今回はマスコミへの批判を中心に、情報収集についてブログを書いてみたいと思います。所詮は大学生の考えなので、と言い訳を前置きしておきますね。あと、このブログのタイトルがネタバレになってるということは、今は無視しててください(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

古代から情報というものは大きな価値を持っていて、また優れた人物はその多くが情報の扱いに長けていました。古代ローマの統治方法、古代中国の兵法書孫子』での記述、ジャパニーズ・ニンジャの存在……。いずれも情報の大切さは古今東西変わらないことを示しています。

情報を集める能力、見極める能力、流す能力。これらは非常に重要で、かつ身近な能力です。おそらくはスーパーでの買い物に欠かせない三桁の足し算と同じくらい重要でしょう。

ただしこの情報を扱う能力というのは義務教育だけでは不十分だと思います。そしてこれらの能力をどれほど有しているかは、個人に委ねられているのが現状です。家庭内であったり、高校や大学での人間関係や部活動であったり、本であったり。

当然ながら個人間にはかなりの差が生まれます。統一した教育を満足に受けていないので仕方がありません。

 

 

 

 

 

 

小学六年生の時に歴史の教育を受ける日本人は、戦前の日本国民はマスコミに扇動されていたと学びます。そして多くの人が心の中で、こう思ったはずです。

「戦前の日本人は愚かであった」と。

もちろん戦前と戦後とで日本人の遺伝子に大きな変化はないでしょう。そして、戦前の日本人が愚かであったということはないと断言できます。戦後の高度経済成長を支え今日の日本を作り上げたのは、紛れもなく彼らなのですから。

 

 

 

僕が恐ろしいと思うのは、戦前と戦後とを切り離して考える人の多さです。

確かに大平洋戦争の前後で日本国は大きく変わりました。しかし、2019年現在にして終戦から75年ほどしか経過していません。このブログを書いている僕の祖父も、終戦をラジオで聴いていた国民の1人でした。それほどまでに近い時代の話です。

戦前の人だけがマスコミに流され、戦後の自分達はマスコミに流されていない。果たしてそうでしょうか。以下にいくつか例を挙げてみます。

 

「冷戦期の西側諸国によるプロパガンダ

中国での文化大革命天安門事件北朝鮮の経済成長、カンボジアでのクメールルージュ(ポルポト政権)、キューバ革命

いわゆる東側の国々についての報道は各国、各新聞社によってまちまちです。wikiを読んでも分かるように、具体的な数字が定かでありません。ただ共通して言えることは、共産政権および社会主義国家は「悪」として報道されていること。(一部メディアは違いますけど)

本当に絶対悪なのであれば国が成立しないので冷静になれば報道のされ方に違和感を抱くはずなんですが、残虐な粛清や弾圧を強調されるとどうしても身構えてしまいます。(それらの残虐な行為を肯定しているわけではないです)

 

「世界から見た日本」

最近よくネットで非難されている、外国人に『ワオ!ジャパンスゴイヨ!』みたいなこと言わせる番組。ヨイショが過ぎてなろう的な不快感を感じてしまう人も多いのではないですか。しかし日本人が世界で最も素晴らしい精神を持っていて、世界中から愛されているかのような考えの人は、少なからず見受けられます。捕鯨とか象牙とかパレスチナ問題とか、日本にも嫌われる要素は多々ありますよ。それに日本人って極東の黄猿のくせして、お金持ちですからね(笑)。

そして反対に、日本を過剰に下げて評価する人も多いです。南蛮渡来までは中国、それ以降(特に幕末)では欧米列強、戦後はアメリカ、近年は北欧も。これらの国へのコンプレックス、強烈な憧れや劣等感というのも、マスメディアによる影響と言えます。つまるところは外国人ヨイショ番組を信じてる人と同じですね。

 

とまぁ政治に限ってもこんな感じです。他にも身近な例なら水素水とか。

 

 

 

 

 

よくマスコミによって「騙されている」と言う人がいるんですけど、マスコミって基本的に嘘は書かないんですよ。センテンススプリングさんみたいな週刊誌は火のないところに煙を立たせるプロだけれども、政治関連では100%の嘘って書かない(書けない)。

これは僕が昔から主張してきていることなんですが、人を騙すのに嘘をつく必要なんてない。相手に与える情報を意図的に制限して偏らせることで、相手は勝手に補足してどんどん違う方へ勘違いしていくんですよ。

よくドラマとかでありますよね。「お前、騙しやがったな!」って言われた時に、澄ました顔で「あれ、私はそんなこと一度も言ってませんけど?」みたいな。あれと同じです。

具体的な例を出すと、沖縄での基地移設に関する住民投票とかもそうかな。

「ここに基地が出来てほしいですか?」という質問であれば、YESかNOで言えばNOに決まってる。誰だって自分の家のすぐ近くに基地なんて来て欲しくないですから。ただそのアンケートの割合が、そのまま基地移設に対する民意とは限らない。そもそも基地移設を仕方ないと思ってる人は、わざわざ投票なんかしに行かないでしょうし。絶対反対って人は藁にもすがる思いで投票するでしょうけどね。

繰り返しになりますが、全く嘘をつかなくても相手を誘導することって可能なんです。小説での叙述トリックとかも同じ。そしてマスコミや官僚の人はこういう情報の操作が上手い。もちろんです、プロですから。

 

 

 

 

さてここで本題というか、このブログの記事のタイトルへ。

情報の取捨選択。口で言うのは簡単ですが、実践するのは難しいです。これまで2500字に渡って偉そうに他者を批判してきた僕ですが、僕もおそらく不完全で。厄介なことに、この問題は答えがない上に正してくれる人もいない。だから間違ってることに気付きにくい。

「ネットやSNSによってマスコミに騙されることは無くなった」という意見がTwitterでは散見されます。なるほど確かに、マスコミの報道についてTwitterなどで指摘しているのは日常茶飯事。そもそもマスコミの報道もSNSから引っ張ってくることが増えてきています。現場での生の声や映像を拾えるSNSは、マスコミに対抗する新しいメディアとして非常に有力でしょう。

ただここで情報の取捨選択の能力が僕らにどれほど備わっているか、という問題を思い返してみてください。

上述したように、僕らはたった数社しかない新聞社の記事ですら、正しく取捨選択することは難しかった(完全でなかった)。そんな僕達がインターネットという莫大な量を誇る情報の海を泳いで、果たして正しく取捨選択することができるのでしょうか。

やはり厳しいでしょうね。

では今マスコミを非難している人達は、どこを情報源としているのか。それはインターネット上に無数にいる評論家(専門家)達です。匿名であったり無名であったり思想面で偏っている、簡単に言えば信頼度の低い評論家の意見を情報源としているのです。

マスコミを非難しておきながら、マスコミよりも遥かに信頼できない情報源を頼りにしている。このことに何の疑問も持たないのは、現代人も、新聞社によって騙されていたとされる人達と変わらないことを意味しています。

もっと言えば、その無数の評論家達が自分の見解を述べる上で参考にしているものを辿っていけば、行き着く先は他でもないマスコミによる報道が大半です。僕ら一般人にはマスコミのような取材力も権利も資金もないのだから、当たり前なんですけど。

 

 

 

「忖度」という言葉が、気持ち悪いくらい流行りました。2019年6月末現在でも未だに流行っています。

この二文字が広く出てきたのは、ウンザリするほどテレビで流れた森友問題だと記憶していますが、それからどこでも忖度忖度忖度……。

あの報道以来、これまで忖度なんて言葉を知らなかったのであろう人達が、まるで玩具を与えられた幼児のように忖度という言葉を並べるようになりました。確か流行語大賞にも政治枠でノミネートされたんでしたっけ。

インターネット上にいる無数の評論家達も、覚えたての英単語をウキウキで使う中学生のように忖度忖度。口を開けば忖度。二言目には忖度でした。

僕としては、未だにテレビや新聞社の影響は強いんだなと、強く思い知らされる一件でした。ネットの普及によってこれからはメディアの形態も変わってくると思っていたのですが、暫くはこのままかもしれないと考え直しました。意固地になって忖度という言葉を使おうとしない僕もまた、少なからず影響は受けていますし。というかあれだけ目にして影響を受けない方が凄いと思います。

 

 

 

 

結局のところ、僕らはマスコミやネットの信頼度が100%でない情報を頼りにするしかない。そして与えられる情報は、量は無限だけれども範囲には限りがある。

持論なんですが、100%の情報は無いと思います。自分自身が知覚、体験したものであってもです。複数のデータや意見を照らし合わせ吟味していくことで、100%でない情報を、自分の中で100%へと近づけていく。そのためには常に情報を鵜呑みにしない事と、窓口を広く設けておく事が大切だと思います。

情報の取捨選択、それは情報の海を泳ぐだけでなく、その海から空を見上げ夜空の星を観察することまでしなければならないと思います。自分が泳げる海から、自分が飛べない空の世界を推察する。そうすれば自分が泳いでいる海への興味関心や知識も自然と高まるのではないでしょうか。

それはまるで、北極星の高さから緯度を測定するように……。

 

 

 

4千字超えちゃいました。

ここまで読んでくれた人、ありがとうございます。

ベルギー旅行で思ったこと

みなさんこんにちは、うぱーです。

先日、関西国際空港→北京(中国)→フランクフルト(ドイツ)→ブリュッセル(ベルギー)という経路でベルギー旅行に家族で行ってきました。ベルギーではブリュッセルアントワープブリュージュに行きました。

今回は、ベルギーと日本との違いについて語っていければなと思います。

 

まず初めに、これはTwitterでも言ったんですけど、ベルギーは多くのトイレが有料でした。

コンビニはベルギーにもあるんですけど、トイレは有料(無いのも多い)。マックやバーガーキングやレストランも有料。駅の公衆便所すら有料……。僕が見たなかで無料だったのは、ホテルのトイレ、電車内のトイレ、2日目の夜に入ったレストランのトイレ、の三ヶ所だけでした。

良い悪いは別にして、日本との大きな違いでしたね。正直1番驚きました。有料だから綺麗なのかと言われたら、まぁ普通って感じだったし。

相場は地域差があるのか、40セントだったり50セントだったりでした。日本円にしてだいたい50円とか60円とかぐらい。高くはないけれどって感じです。もしお金を持ってない子供とかが街でトイレに行きたくなったら、どうするんでしょうか。ベルギーの人は小学生にも常に財布持ち歩かせてるのかなーなんて考えましたね。もしかしたら有料なのは都市部だけで、地方では無料なのかもしれません。その辺はリサーチ不足です。

 

次に、バリアフリー要素が思ってたよりはるかに無いこと。

電車に乗るには三段の階段(まぁまぁ急)を登らないといけなくて、車椅子だとまず無理。街を歩いていても、点字の案内なんかは本当に少ないです。

というか、そもそもお年寄りの方や身体障害者の方が少ない印象を受けました。観光地だからというのもあるんですが、移動中の電車や住宅街でも少ない。国の人口におけるお年寄りの割合ではベルギーも高齢者は多いはずなんですが、見かけた数では日本と全然違いました。

 

言語について。ベルギーではフランス語オランダ語ドイツ語などが話されているんですが、それぞれが話されている地域によって看板の字が違ったりして、面白かったです。

日本だとどこでも日本語で書かれてるんですけど、あっちだと新聞も看板もガラッと変わる。ブリュッセルはフランス語圏なんですが、アントワープへ向かう電車に乗っている時、いきなりアナウンスがオランダ語になって驚きました。大陸の国だと珍しくないんでしょうけどね。

ちなみに英語はどこでも通じるんですけど、なかなか英語を話してくれない人もいました。僕らが東洋人なのは顔を見れば分かるはずなのに、頑なにドイツ語しか話さない人とか(笑)。あとは訛りもあって聴きづらいというのもありましたね。個人的にはオランダ語圏の人は英語が綺麗で聴きやすい気がしました。言語学的に発音が近かったりするのかなぁなんて。

 

あとはカフェですね。パノスというお店(パン屋)がベルギーでは至る所にあって、それこそ1つの駅に何店もあったりしたので、何回か立ち寄りました。他にもマックでコーヒーを頼んだり、バー兼喫茶店のお店でホットチョコ(チョコレートをお湯に溶かしたジュース。めちゃうま)を頼んだりしましたね。

そこでびっくりしたのは、お菓子がついてくること。マックでも、コーヒーやカフェラテを頼むとクッキー(サブレ?)が1つ付いてきました。パノスのイートインに関しては、お茶請けのお菓子は砂糖とかと一緒に自由に貰えたんです。

お茶請けは無料なのにトイレは有料なのか(笑)と思ったんですが、良いサービスだなとも思いました。居酒屋での突き出しみたいな感じなのかもしれません。ベルギーの物価自体は日本よりちょっとだけ高いかなってぐらいなので、コーヒーの値段もそんなに気になりませんでしたね。日頃からスタバとかには行かない人間なので、コーヒー1杯に500円近く払うのは慣れませんけど(笑)。

 

食べ物について。

ベルギーはヨーロッパの中でもご飯が美味しいという話は、お母さんの友人のフランス出身の方から聞いていました。曰く、「ベルギーにはフランスみたいな歴史や観光地はないけど(ここを強調)、食べ物は美味しいよ。すぐ太るよ」

実際その通りで、ヨーロッパだからと覚悟していた僕は良い意味で期待を裏切られました。ビールは黒に近い深みのある味ですがどれも美味しかったですし、ムール貝やチョコやワッフルも美味しかったです。レストランとかは家族のノリで選んだんですが、ハズレは無かったですね。

 

また何かしら思い出したら、追加していきますね。

最後に、ベルギー良いですよ。

「青い春を数えて」読後感

"響け!ユーフォニアム" のファンである僕は、その原作者である武田綾乃先生のファンでもあり、今作も例に漏れず購入しました。

 

ちなみに先生の新作 "その日、朱音は空を飛んだ" も絶賛発売中です。

自殺した生徒をめぐるスクールミステリー……らしいのですが、まだ読めていません。読み終えたらブログに書きますが、ぜひみなさんも読んでみてください。

 

今作は短編集という形で、主役が章ごとに変わります。登場人物達は微妙に近い関係にあって、章を跨いで登場するキャラがいたりするのが、連続性のある短編集の良いところですよね。

例えば宮城谷昌光さんの "孟夏の太陽" では時代が違っていますが、趙氏の代々の人物が主役となることで先祖の想いみたいなものが読者にはそのまま分かったり。またドラクエ4や今作のように視点となる主役が変わっていれば、一人称視点でありながら複数の考え方や悩みが描けたり。

 

読後感に入る前に、まずは章ごとの大まかなストーリーを。この先ネタバレあります。

 

・第1章『白線と一歩』

放送部員の宮本千咲が主人公。同級生で部長でもある三浦有紗に劣等感を抱いている千咲に、有紗は後輩の森唯奈の面倒を見るように頼まれる。やがて唯奈と仲良くなってきたところで、有紗の口から出た言葉とは。

見どころは有紗からの鋭い言葉。

 

・第2章『赤点と二万』

受験生の辻脇菜奈が主人公。私立志望の菜奈にとって受験に必要なのは三教科だけで、そのため菜奈はいつも生物の定期試験で赤点を取っていた。物語はある回の生物の定期試験で学年一位の優等生、長谷部光が赤点を取ったことから始まる。

見どころは塾での森崎先生との会話。

 

・第3章『側転と三夏』

料理部の森崎真綾が主人公。料理が得意で趣味の真綾は、よくインスタに作った料理の写真を投稿していた。ある日、姉の森崎咲綾が盛大に失敗したケーキをインスタに投稿すると、ネットニュースにもなるほどの大反響に。真綾は、いつのまにか他者からの評価を気にしすぎてしまっていた。

見どころは真綾と咲綾の姉妹愛。

 

・第4章『作戦と四角』

吹奏楽部の米谷泉が主人公。眼鏡大好きの泉は、周りの人間がコンタクトにするのが気に入らない。いやもっと気に入らないのは眼鏡よりコンタクトの方が可愛いという風潮だ。その中性的なルックスのために昔から性別と向き合ってきた泉は、社会の偏見や風潮が大嫌いだった。

見どころは電車内での会話。

 

・第5章『漠然と五体』

優等生の細谷(下の名前は出てたっけ)が主人公。通学電車から降りずに3回目のズル休みが決まった細谷に、4章にも登場した清水千明が声をかける。見知らぬ土地へと降り立った2人が、旅を経て得たものと捨てたものは何か。

見どころは千明の独白と細谷の苦悩。

 

あらすじを書きながら思ったんですが、これじっくり感想や私見を書いていると1万字とかすぐに超えちゃいそうです笑。

というわけで、章ごとの簡単な感想に自分語りも交えてポツポツと。(※一応言っておきますが、僕個人の意見です)

 

まず第1章ですが、この章のテーマは比較ですよね。

人間が2人いれば、そこには必ず優劣が生まれます。ある分野では自分が、別の分野では相手が、それぞれ優っているし劣っている。

主人公の千咲は、たぶん有紗に言われるまでもなく分かっていたと思います。でも頭に心が追いつかない時って、あるじゃないですか。理論じゃ感情は動かせないし、理論だけで動けるほど人は強くない。

友達の有紗に冷たい現実を突きつけられて、自分を慕う後輩に舌打ちをして、そうやって雨の中を走った千咲。彼女は何を考えながら走ったのか。

本文に書かれているのはあくまで多くある内の一つだと思います。小説っていうのは、時として読者が勝手に話を変えてもいい。作者が作り出した世界は、文章になった時点で作者だけのものではないというのが持論です。例えば僕が千咲の立場だったらどんな事を考えるでしょうか。延々と有紗への悪口を考えていたりして笑。だめだ、性格悪いのがバレる。

余談ですけど、こういう時の雨って本当に心まで届きますよね。そして心地良い。熱くなった感情を冷ましてくれるだけじゃなくて、荒んだ心の傷口を洗い流してくれる気がするんですよ。……書いててなんだか雨に濡れたくなってきました。この時期に雨に濡れたら風邪を引くこと間違いなしなんで、アホの僕でも流石にやりませんけどね笑。

 

次に第2章。この章のキーワードは効率ですかね。

「受験に必要のない科目は勉強しなくていい」という考え、受験生の多くが持ったことあるんじゃないでしょうか。僕も物理化学選択だから生物基礎は受験に関係ない、じゃあどうでもいいや、って何度も赤点をとりました。実際は世界史と地理と国語以外は全教科赤点だったんですけどね(←おい)。

「損して得とれ」って言葉が、僕は大好きです。1万円に拘る人は100万円を見逃してると思うし、1分に拘る人は1時間を無駄にしてる。スーパーの割引の広告や信号無視する人を見るたびに思います。おやつ一つ我慢すれば100円なんてすぐ浮くのに。五分早く起きれば変わらないのに。こればかりは考え方の違いなんで、どうしようもないですが。

ツイートでも言及した菜奈の指定校推薦はズルいじゃないか発言。浪人していた僕としては、似た発言を受験期に幾度となく見聞きしましたね。僕自身もちょっと思ったことがあります。

ただ、そんなこと嘆いてもどうしようもない。上には上が下には下が。森崎先生の言うようにズルいの連鎖が起こりますよね。前述したように多くの人は正論で感情を制御できるほど強くないので、たぶんこの先もずっとこういった発言は消えない。

まぁつまり何が言いたいかというと、効率というのは広い視野で見るべきだし、そして未来だけじゃなく現在にも目を向けるべきってことです。未来も過去も、結局は今の積み重ねですからね。未来へ投資することや過去を振り返ることと、今を蔑ろにすることは別問題。未来のためになるのなら過去を振り返ろうと構わないし、今の自分が強く望むのであれば未来を多少は投げ捨ててもいい。

今を大事にできない人は、きっと未来においてもその先の未来のために今という瞬間をおざなりにしている。たかだか20年しか生きてない人間なんで偉そうなことは言えませんし、僕自身が刹那的な生き方をしてる人間なんで偏りはありますけど、でもそうだと信じてます。

 

第3章で特筆すべきは、なんといっても承認欲求でしょう。

いかにも現代的なテーマですよね。もちろん昔から名誉とかは事あるごとに挙げられてきた議題ですが、個人が世界と簡単に繋がれる現代では、その問題の若年齢化が激しくなってきていると思います。今や小学生でもネットやチャットはザラなんですよ。先日、僕も従兄弟がボイスチャットで会ったことない人と話しながらゲームしてるのを見て驚きました。

他人によく思われたい、他人に必要とされたい。そうやって自分の居場所を求めたりするのは、村社会の日本人には特に強い傾向なのでしょうか。僕は文化人類学者でも心理学者でもないので分かりませんが、そういった話をよく聞きます。仮にもしそうだとしても、日本人以外はそんなことで悩まないというのは違うと思いますけどね。

僕はTwitterを始めてから、このブログを書いている2018年11月現在でたぶん7年目になります。それなりに長くやっているので、この章の真綾のような現象は何度も何度も見てきました。以前ツイートした「囲われナオンになりそうなら逃げろ」というのもその一つです。

自分なんてものは、常に変わっていくものだと思うし、変わるべきだとも思っています。「昔の〇〇に戻ってくれ」という意見はいろんな場所でしばしば見かけますが、変わってしまった今のそれも、間違いなくそれなんですよ。

ただ大切なのは、変えようとして変えたのか、知らず知らずのうちに変わってしまったのかということ。真綾の場合は後者ですよね。他者からの期待に応えようとするあまり、以前のようにはいかなくなった。真綾は自分で気づいて戻れたから良かったですけど。ただ彼女と違い、そのまま沼に浸かっていった人も少なくないです。

他者からの期待に応える自分、そのあたりについては後日ブログに別の記事として書くつもりです。というか既に下書きには書いてあるんですけど、まだ人に見せる勇気がないです。そのうち投稿します。

素直に読後感らしいことを書くとすれば、僕はこの章の森崎姉妹の関係が凄く好きです。僕と姉の関係も、これに近いからでしょうか。デキる妹と愛嬌は抜群にある姉。なんというか、これくらいがバランスの良い関係なのかなとも思ったり。それはそうと、この章の咲綾、最高にお姉ちゃんしてますよね。こんなお姉ちゃん欲しい。既にいるけど。

もし咲綾が主人公に選ばれていたら、どんな物語になっていたでしょうか。そんな考えを基に彼女のSS(二次創作小説)を書こうとした僕。わずか1時間で挫折しました笑。彼女に鬱々としたことを考えさせて笑顔を曇らせるなんて、僕の良心が痛みました。女の子は笑顔が1番です。

 

第4章は、性別などにおける偏見や風潮という、これまた現代的なテーマ。

身体は男だけど、心は女性。その人が女子トイレを使うことを世間は良しとするのかしないのか。きっと人工知能の発達によって人間に近い人型ロボットが登場すれば、この先こういった話題はますます避けられなくなるでしょう。それに伴う法律の整備も大変です。頑張れ政治家さん官僚さん。

女の子だからと着せ替え人形をプレゼントされたりする話は、僕は小学校の道徳とかで何回も見ました。その時の授業での答えがどうだったかは覚えていませんが、たぶん自分らしさが1番大事だ的な感じだったと思います。今のご時世じゃ学校の授業で「女の子らしく生きましょう」なんて思っても言えないでしょうし。

ところで僕はプリキュアが好きなんですが、世間的にプリキュアは小さい女の子が見るものなので、映画館でミラクルライト(ピカピカ光るやつ。劇中でそれを振る場面がある。ちなみに観客参加型の映画はプリキュアのミラクルライトが初と言われている)貰えないんですよ。心のミラクルライトを振ったり、特殊な経路で入手したり、そうやって肩身狭く応援してます。もちろん小さい子ども達が最優先なのでそれでも良いんですけど、ほんのちょっとだけ寂しい気持ちはありますね。僕もプリキュアを見始めた頃は5歳の小児だったのに……涙。

っと、少し話がズレましたが、何となく言いたいことは伝わったでしょうか。伝わってませんよね。

僕自身は、こういうのは基本的に本人よりも社会を優先すべきだと思っています。女子トイレを使うのはあくまで見た目が女性の方が主ですから、姿が男性の方がどうしても使いたいのであれば整形をするべきではないでしょうか、みたいな。ただ、単に社会の型に当てはめるというのは言い方が悪いと思いますね。まるで社会は不変の存在かのように聞こえてしまう。

型そのものも一人一人の声の集合ですから、時代とともに変わっていくものです。現に女性の社会進出はかなり進んできています。今や夫婦共働きは、そこに経済的理由が含まれないケースも増えています。これは100年前と今とで社会の型が変わっている証拠です。

つまりは歩み寄り。この記事はあくまで僕の持論を展開するものではなく読後感なので深くは掘り下げませんが、歩み寄りが1番緩やかに、かつ1番早く解決できると思います。

1番気に入ったのは、千明が話しかけてくる場面。軽くバチバチしてる感じが好きです。僕が好きな四字熟語、一触即発。先生、もっとハラハラさせてくれてもいいんですよ。

 

第5章は、これは重すぎます。ピンポイントで今の僕にグサグサと。まともなコメントできる気がしないので割愛しますね(コラ)。

テーマは何なのかと言われると、ちょっと悩みます。というのも、僕としてはテーマなんてないと思うんですよね。いい言葉が浮かんでこないだけなのかもしれませんが。

ツイートしたように、僕も浪人時代に千明のように電車にひたすら揺られるなんてことをしてました。細谷のように駅に着いても降りないとか、あとは授業が始まる直前になって教室を逃げ出したりとか。何度かTwitterに泣きついたこともあります。癖になってしまったのか、大学生となった今でもたまに。

人の行動において、理由なんてものは大した存在じゃないというのが持論です。後付けであったり、大義名分であったり。感情のままに動く自分を納得させるため、世間を説得するために整備された理由が利用される。そういうことも多いと思います。だから事件は大きくても、動機は大したことないケースも稀じゃない。代替不可能な理由なんて、日常生活ではなかなか無いんじゃないでしょうか。

細谷がズル休みする理由も僕は同じだと思います。たまたまそれがキッカケになっただけで、おそらく並行世界でも別の理由で同じように休んでいる。その世界で千明と喋ったかはわかりませんが。

「なにかを成し遂げるためには、なにかを得るためには、なにかを犠牲にしなければならない」。中学の部活の顧問の先生がよく言っていました。細谷と千明は何を犠牲にして何を得たのでしょうか。答えは読者によって十人十色だと思います。今ここで言葉にしてしまったら固定化されてしまいそうだから、僕もあえて書きません。

同じ問いも、時と場合や気分によって答えが変わる。それは理数にはない国語や社会の面白さだと思っています。変わっていくからこそ、いつまでも考えていられる。自分が導いた新しい答えを自分で楽しめます。

大人になってからもう一度この本を手に取った時、この本を自分の子どもに薦める時、僕はどんな答えを出しているんでしょうか。

 

 

最後に。

誰だって悩みを抱えているものです。そしてその悩みは、外から見れば軽重に差があろうとも、当人にとっては同じように苦しく、そして深い。

学生期間を既に終えた読者の方にとっては、最近の若者はこんな悩みを抱えているんだな、という発見になるかもしれません。ただ時代は変わっても、その悩みは普遍的なものだと思います。

他者から見た自分。自分のなりたい自分。理不尽で冷たい社会。逃れられない現実。無慈悲に訪れる明日。

限られた時間と空間の中で悩み苦しみ歩む若者達に、是非この本を通じて寄り添ってみてください。

 

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。ちなみに約6千字です。

では今回はこの辺で。

フレッシュプリキュアに見る資本主義と共産主義

またプリキュアかよ!

 ツッコミが聞こえてきます。呆れかもしれません。しかし言わせてください。

「ブログくらいプリキュアの話させて」

 

 フレッシュプリキュアの敵は管理国家ラビリンス。悪の組織などではなく、れっきとした国です。ラビリンスは管理国家というだけあって、国民一人一人の1日のスケジュールが全て決められています。寿命でさえ管理されているのだから驚きです。現に敵幹部であるイースは役立たずの烙印を押されると共に寿命が削られ、死にました。

 管理国家ラビリンスのボスである総統メビウスの正体は、実はかつて開発された人工知能でした。出来損ないの人間達に代わって人工知能が統治してやるというSF展開です。身の回りのことを次々と機械任せにしていく現代人にとって避けられない議題なのですが、今回はスルー。ここでは、いかにして管理国家ラビリンスは変わったのかに注目してみたいと思います。

 管理国家ラビリンスを変えたのは『ドーナツ』です。もちろんプリキュアの懸命に戦う姿にラビリンスの人たちは感化されるのですが、それ以上に大きかったのはドーナツの""美味しさ""に触れることでした。

 ラビリンスは管理国家です。食事も当然管理されているので平等です。栄養さえ取れればよく、そこに美味しさは必要ありませんでした。特に味のしないものを並んで黙々と食べるというのがラビリンスの食事風景。平等で公平で均等、生まれた頃からそういう生活をしてきたラビリンスの人達はその生活に疑問を抱きません。しかし資本主義の中で生きてきた当時小学生5年生の僕は、プリキュアと共に衝撃を受けました。

 プリキュアを助けるために現れた、妖精のフェレットであるタルトが配ったドーナツ。それを食べたラビリンスの人達は"美味しい"という感情を知ります。美味しいという感情はやがて"食べたい"という欲を生み出し、もっと欲しいという想いに繋がります。

 もっと食べるにはどうしたらいいのでしょうか。もっと美味しいドーナツを食べるにはどうしたらいいのでしょうか。

 私達人類がこれまでの歴史で導いた答えは「お金」です。貨幣によって世界のあらゆるものを評価し、査定する。定められた金額を支払うことによって対象を得ることができます。これはある意味では公平だと言えます。お金さえあれば何でもでき、そしてそのお金は誰しもが稼ぎ得るものだからです。

 しかし同時に""差""を生み出してしまいました。もちろん意図的に差別化しているのですが、これによって不満が生じるのは当然です。「あの人は高級車に乗っているのに、僕らは自転車しかない」なんてことも起こります。平等とは程遠い世界が出来上がってしまいました。現代日本はこういった国の一つと言えます。

 

 『自由』と『平等』

 管理国家ラビリンスには自由が足りませんでした。何もかも管理されていて、国民には自由がありません。でもその代わりに平等があります。うんざりするほどに全てが平等なのです。

 現代日本には平等はありません。もちろん完全に無いわけではありませんが、やはり少ないでしょう。平等と公平というのは似て非なる存在です。日本には公平は多いですが平等は多くありません。このことに不満を抱く人を私はたくさん見かけてきました。しかし逆に現代日本には自由があります。これが何よりの強みです。

「 資本主義の味を知ってしまうと、共産主義には戻れない」という言葉があります。いかにも西側諸国が東側に向けて制作したプロバガンダだなぁという感じですが、しかし間違っていないと思います。人は一度知った喜びや幸せを忘れられません。美味しいドーナツを食べてしまったら、もうドーナツの無い生活は不満の溜まるものになるのです。あの時と同じくらい、もしくはもっと美味しいドーナツが食べたい。そう思い始めた人はもう万人に対し平等に与えられる食事には耐えられないでしょう。たとえそこに美味しいドーナツがあってもです。

 

 長々となりましたが、これ以上はやめておきましょう。なぜなら今書いてる僕が眠くなってきたからです。

それでは今日は、この辺で。

フレッシュプリキュア観てね(笑)

 

小説版スイートプリキュアから見る噂の怖さ

ずっと探していた「小説版スイートプリキュア」を昨日ついに購入しました。既に三回読んだのですが、何回読んでも重苦しい展開に心が沈みます。主人公である北条 響による一人称形式で淡々と書かれている文章。誰よりも純粋で、一見して強そうだけど簡単に崩壊してしまう脆さを秘めている、そんな響が段々と周りを信じられなくなっていく様子が丁寧に表現されていました。

 

 以下ネタバレを含みます。

 僕が今回注目したのは、タイトルにもある通り「噂」の怖さです。

 主人公である響は、町の人が相次いで失踪していく事件の犯人が身近の人物かもしれないと言われ、戸惑います。やがて町の人々があることないことを噂し始め、初めは一笑に付していた響もいつのまにか無視できないようになってしまいました。ついに響は仲間であり幼馴染である奏を疑ってしまうのです。

 「私は噂話が嫌いだ」「噂話をする人をじっと見てると、そのうち目が合って、自分も悪い噂を立てられてるんじゃないかという気持ちになってしまう。そして知らないうちに、噂話の世界へ引きずり込まれてるような感覚におちいってしまう」「誰に聞いても『誰かが言ってた』と言う。だから言い出した本人には永遠にたどりつけない。それが噂だ」

 歴史について勉強していると、というか学校生活の中でも、噂の怖さを実感することは多々あると思います。

 「火のないところに煙は立たない」などという言葉もあるように、その噂話があるからには何かしらその噂話に近い出来事はあったのだろうと人が考えるのは自然です。

 怖いのはその先で、初めは自分で想像していたことが、いつのまにか自分の中で事実に変わっている。その考えを他人と共有することで、確信へと変えてしまう。伝言ゲームのように、噂はどんどん本筋からズレながら(大抵の場合悪い方に暴走しながら)、人の心の中を走っていく。

 自分は1人じゃない、という想いは人を強くします。少年漫画でもよく見る展開です。でもそれは悪い方向にも同じことが言えてしまいます。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。責任の分担、罪の共有。人は無意識に刺激を恐れて現状維持を求めている、僕はそう考えています。今あるものを失う恐怖に打ち勝てるほど強い想いのエネルギーは、なかなか無いんじゃないでしょうか。

 主人公の響は噂を恐れながらも、やがて心に留めてしまい、最終的には自分も噂という化け物によって飲み込まれてしまいます。ですが響は無事に困難を乗り越え、事件を解決しました。

 響が猜疑心を乗り越えた方法、それは「感じる」ことです。目の前にいる親友が何を考えているか分からない。もしかしたら噂話は本当なのかもしれない。親友が黒幕で、自分も消されてしまうかもしれない。でもそんなのどうだっていい。自分との友情に嘘はない。この気持ちは偽物じゃない。

 自分の中の親友を信じている心、みんなを大切に思っている心、なによりみんなが大好きなこと、響はそれを感じて、信じることにしました。このエネルギーが噂という化け物を追い払うことに成功したのです。

 「闇が閉じ込めているのは光ではなく、文字通り『音』だ」というセリフが文中に登場します。音楽を題材にしているスイートプリキュアならではです。響は猜疑心や悲しみによって、周りの音がいつもと違って聴こえるようになっていきます。

 周りの人の声や、自然の中に流れる音が、おかしく聴こえる。響はそれを周りが変わってしまったと思うのですが、1番変わってしまっているのが響であることは言うまでもありません。周りがズレているのではなく、自分がズレていたのです。

 猜疑心というのは、こういうズレや歪みを見逃しません。そして大抵、そこへ都合よく噂話というのは流れてきます。自分の考えを補強するように、外から噂が供給されてくる。その噂をさらに自分色に染めて外へ流すと、連鎖が始まります。

 もしみなさんが苛立ちや不安や悲しみを抱えていたとして、そこへ自分が望むような話が流れてきたら、一回深呼吸してみてください。その話は嘘ではないかもしれません。誰かの善意かもしれません。ですが自分にとって都合が良すぎるあまり、リスクや悪い面を見過ごしている可能性を考慮してみても良いのではと思います。自分に都合が良いように、無意識のうちに自分がその話を利用しているかもしれないのです。

 

それでは、今日はこの辺で。

スイートプリキュア見てください(笑)